2013年6月2日日曜日

復興までの長い道のり

 東日本大震災から二年あまり、テレビや新聞などで現地のニュースを目にする機会が以前よりずいぶん少なくなりました。「絆」という言葉はいたるところに宣伝されていますが、その言葉への自覚も薄くなり、やや形骸化しつつあるように思います。
しかし、現地の現状は、いまだ遅々として進まない復興やがれきの処理などに苦しめられていると聞きます。
 そんな中、アイファーストでは5月31日~6月1日、社員旅行を兼ねて東日本へ遅ればせながらの視察へ行くこととしました。

 




 
 
 仙台市まで新幹線で3時間あまり、その後はレンタカーで塩釜まで行きました。水産業が盛んな土地で、笹かまぼこの生産で有名です。昼食をいただいた笹かまぼこの店では、店員の方が当時の被害状況を説明してくれました。避難場所となったという店内の一階の壁には青いラインが着色されており、それは浸水位置を示しているとのことです。

 昼食後に南三陸町を通り、その日は気仙沼まで足を延ばしました。南三陸町はご存じのとおり、津波の被害が特に大きかった土地のひとつです。
 初めて眼前にした津波の跡地は、「怖い」というより、「寂しい」という印象でした。かつて住宅地や線路があっただろう見渡す限りの平地は、むき出しになった地面にシロツメクサがうっそうと生えており、ところどころに小学校の校舎跡や建物の土台などが残っているだけです。ひと気もほとんど無く、生活感も失われた土地は、生きた町というより、忘れ去られた遺跡のように思いました。

 また、地盤沈下のせいでしょうか、海面が非常に高く見えたのが印象的でした。町と海の高低差が少ないどころか、むしろ海面の方がせりあがって見えるくらいです。これでは、津波でなくとも海がなだれ込んできそうな具合です。
 山の麓では、津波がなぎ倒していったであろう木々が伐採され、切り株だらけになっていました。ごっそりと目減りしている斜面の土は、津波が流したのか、それとも塩害への処置なのでしょうか。尋常でない景色なのは間違いありません。

 
 町も一歩上に上がると、波が及ばなかった場所に入ります。そこでは変わらぬ生活が営まれているように見えますが、中心地が奪い去られた町で暮らすのはさぞ骨が折れることが多いと思います。山裾の川辺では、仮設住宅もいくつか見られました。

がれきの山。鉄や木材、車などが山積みになっています。
 
小学校。廃屋のよう。


 南三陸町を北上して、車で二時間ほどで気仙沼市に到着しました。時間が押しており、あまり多くを見れませんでしたが、港の近くに打ち上げられた船を確認しました。見上げるばかりの漁船は想像以上の大きさで、ずいぶん遠くからでもすぐ見つけることができます。
 船底の周囲の地面には色鮮やかな大漁旗が一面に敷き詰められており、異様に巨大なオブジェを見ているような気持になりました。道路を挟んだ向かいにある一軒だけあるセブンイレブンはプレハブ造りです。今回の旅行では何度かプレハブのコンビニや家々を確認しましたが、再建の追いつかない町の現状を切に感じました。

 
漁船の窓から鳥が出入りしていました。巣になっているようです。



 夜は、南三陸町にあるホテル観洋さんに宿泊しました。津波をかろうじて免れたこのホテルは、被災者の受け入れと支援を積極的に行い、町の多くの人々を救ってきました。金曜の夜だというのに大勢の客でにぎわっているのは、素晴らしい接客と、こだわり抜いた食事、落ち着いた部屋のせいでしょう。南三陸の絶景を楽しみながら、私たちも大いに身体を休めることが出来ました。

ホテルから見える海。恐ろしさは無く、きれいです。
 
 
ホテルを支えてきた社長(右下)と一緒に。


 

 翌日は、松島に行き、瑞巌寺や松島湾のクルーズを楽しみました。日本三大風景に数えられるだけあって、風光明媚な土地です。震災の際には、海に浮かぶ数百の島々が、津波の勢いを抑え、被害をかなり低くしたということです。長く語り継がれた景勝は、自然に守られ続けてきた証としての誇りでもあるでしょう。



島々は松とウミネコのすみかです。



 夕方、仙台に戻り、わが町湯河原に帰ってきました。いつ大地震が起こってもおかしくないと言われている関東です。南三陸や気仙沼は、私たちの土地の未来の姿でもあるかもしれません。気たるべき災害に備えながら、今こうして、自然や人々に生かされていることに深く感謝をしながら、働いていきたいと思いました。










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